時間という、命の単位
ワールドカップと一冊の本

日々、意味>新 2014.06.25 水島 七恵

2014年FIFA ワールドカップブラジル大会。それは4年に一度の晴れ舞台。競技人生、そのすべてを捧げる勝負の時。試合終了後、内田篤人選手は振り返っていた。「勝負ごとに“たられば”はないけど・・・(話は続く)」

 

“たられば”。あの時こうしてい「たら」、あそこでこうしてい「れば」。事実とは異なることを仮定して、後悔しても意味はない、ということだ。どんなに後悔しても、現実に打ちひしがれても、自分の心と身体からは逃げられない。“たられば”は、勝負に限った事ではなく、私たちの営みすべてに言えることでもある。泣いても笑っても人生は止まってくれない。人生とは、生まれてから死ぬまでのこと。例えば、好きな作家の本を時間をかけて読むこと。美味しい食事を身体に摂取して、排泄すること。突き詰めると人生は、一刻一刻の日常の積み重ね。

 

私たちは日々、こうして物心ともに生産と消費を繰り返すなかで、大なり小なり人生の勝負時を迎えている。そしてその瞬間に巻き起こる躍動、つきまとう失敗や後悔の怖さを、私たちは身体で覚えている。サッカーに詳しくない私が、国民が、これだけ夢中になって勝負を見届けるのも、彼らの人生のなかに、自分の人生の一片を、垣間見ている部分があるからではないだろうか。

 

そんなことを悶々と考えていたら、ふと、ある一冊の本を思い出し、久しぶりに書棚から手に取ってみた。タイトルは、『手から、手へ』。本作は、詩人・池井昌樹氏の同名の詩と、鳥取砂丘を舞台にした家族写真で知られる写真家で故・植田正治氏の写真を組み合わせて生まれた作品で、ちちははから子供に向けて、大切な家族のものがたりが綴られている。

 

「どんなにやさしいちちははも
おまえたちとは一緒に行けない
どこかへやがてはかえるのだから」

 

手にした途端、胸が痛くなった。そこには止まらない時間への絶望と希望がまるごとくるんであったから。詩は、自分の置かれた状況や心情によって、受け止め方が変わってくるものだけれど、今日の試合を通過しながらその詩を読んだとき、私の内側には、時間という命の単位が迫ってきたのだった。

ワールドカップと一冊の本。不思議な繋がりを感じた今日もまた、明日になれば過去になる。

 

『手から、手へ』
詩:池井昌樹 写真:植田正治 企画と構成:山本純司 発行:集英社