冬物の洗濯と自我のない線

日々、意味>新 2018.06.02 野本 哲平

早いもので六月に入り、梅雨入り前のおそらく最後のまとまった快晴であろうここ数日は気候が良くてとても気持ちがいい。
溜めていたウールのセーターやニット帽、ダウンセーターやパフボールベストなどの冬物を意を決して洗濯。
ウールのセーターは洗濯前と洗濯後で縮みや伸びの調整ができるとかできないとかで、その基準となる形をアーカイヴするために輪郭を大きな紙に原寸でトレースしておく。
もともと大きな紙が好きなのだが、気負うことなく鉛筆でそれをトレースする行為はなんだか楽しい。
トレースし終えて残った輪郭の線は、気のせいかそれを着ていた人間の雰囲気を残し醸し出しているような気にさせるからまたおもしろい。
洗濯ごとに線が増え、形が増えていくのを視覚化できる様は楽しいし、何よりこの大きなメディアに機械的に記された原寸の洋服の姿が興味深いことに美しい。
洋服を作る時のデザイン画でもなく、生地を裁断する時の型紙でもなく、このただの輪郭のアーカイヴは、力の抜けた、常に後追いで後天的かつ自動的な情報でしかないのである。
その自我のない線が紡ぎ出す形はただの情報でしかないはずなのだけれども、どうしてか何百年もの時の流れで一代一代受け継がれ進化してきた、民家や民具のデザインのような、無理のない見ていてほっとする存在感を放っている。
丸めて筒状にして保管するっていうのも、モノとしてデータを残すことと保管のしやすさとのバランスがちょうどいい塩梅な感じがしてまたいい。
機会を見つけてこのフォーマットを今後ちょっと詰めていってみようかなと思う。