20世紀初頭の芸術運動

日々、意味>新 2019.06.07 加藤 孝司

今年はワイマールにバウハウスが創設されて100年ということで、バウハウスおよび20世紀初頭の芸術運動が気になる。今回はオランダの前衛芸術運動であるデ・スティルについて。

デ・スティルとは英語で言うところの「The Style(様式)」の意味のオランダ語であるが、そもそもデ・スティルとは何か?
それはしばしば例えられる様にバウハウスの様な組織的なものではなく、構成主義のようにその芸術運動をもって社会に何かを還元しようとするようなものではないし、政治的な色合いは皆無に等しい。造形という意味においてはデ・スティルが生まれたオランダという国の持っているところの風土によるところが多い。オランダの歴史は営々と継続されてきた干拓の歴史を抜きにして語ることが出来ない。この国の土地はほとんどが海抜下にあるのだ。

デ・スティルの造形的理念は、垂直・水平、アシンメトリー、三原色の造形であるが、それは単純で具体的であるが故に抽象的である。それが平坦でのどかなオランダの土地を縦横に走る運河と堤防と整地された陸のある人工的な景色から来ていることは、デ・スティルの創始者テオ・ファンデル・ドゥースブルグが述べているところでもある。
現在我々がデ・スティルの名前で想起するところのものと、実際のデ・スティルの活動とはいささか異なるところがあるのかもしれない。
デ・スティル(ロッテルダム派ともいう)とは、美術評論家でもあったテオ・ファン・ドゥースブルフが編集長となり、後に広告の分野でも活躍するヴィルモシェ・フサールが表紙のアートワークを手掛けた、1917年10月に刊行された僅か12ページのテキストに1ページの図版の機関紙「デ・スティル」のことであり、1928年までドゥースブルフを責任編集長に不定期に刊行された。
1915年第一次世界大戦の最中、ヨーロッパのほかの国々が戦火により芸術活動が停滞するなか、中立国オランダにあって自身の思い描く抽象芸術の普及のために雑誌発刊の必要性を感じたドゥースブルフは(中世の頃よりオランダは印刷技術が発達していた)、パリから帰国中の当時すでに成功した画家であったオランダ人のピエト・モンドリアンに自身の活動に対する同調を求めるが絶対的な賛同を得られぬまま計画は一時頓挫する。その後ファン・デル・レック、フサールら賛同者を得て(結局モンドリアンも参画することになる)刊行にこぎつける。当初からドゥースブルフの基本理念である合理主義と機能主義、絵画と建築を統合する総合芸術を標榜する。その点においてドゥースブルフと同時期、絵画と建築の問題に実際的に取り組んでいた創設者の一人ファン・デル・レックとの見解が一致することになる。活動当初からデ・スティル誌での論議は活発で、その論調もドゥースブルフの思想に則ったものであった。そしてそこがのちに、あくまで建築と絵画の統合を標榜するドゥースブルフと、絵画こそがもっとも造形的であると考えるモンドリアンとの確執を生むことになる。
デ・スティルの前衛芸術としての先鋭的な活動内容を考えてみれば、その活動期間が10数年継続されたことは異例の長さともいえる。それはひとえにドゥースブルフの責任者としての並々ならぬ情熱と精力的な活動の賜物であるというほかない。実際1920年代に入ってその思想の普及のためにドゥースブルフは大戦後のヨーロッパを廻っている。そしてそれはワイマール期のバウハウスを手工芸的な表現主義から、構成主義的・合理的・機能主義的な現在知られているような近代的・幾何学的な手法のバウハウスへの転換の重要な示唆を与えるという一つの成果を生むことにもなるの。そのようにドゥースブルフの掲げる思想が当時のアヴァンギャルドで先鋭的な若い芸術家達にも受け入れたれたことは、小国オランダで生まれたこの芸術思想が真に革新的であったからにほかならない。
その思想は厳格に規格付けされた、色彩と形態に基づき造形することであり、その活動の集大成を建築であると標榜するものであるが、その抽象的な絵画=コンポジションでデ・スティルの代表的な画家であるモンドリアンは厳格なカルヴァン派の家庭に生まれ、平凡な風景画を描く画家であったが、1911年からのパリ滞在中に出会ったピカソらのキュヴィズムのスタイルに衝撃を受け、自身の画風を次第に抽象画の世界へと変化させていくことになる。そのころからモンドリアンは自身の作品を「絵画」ではな「コンポジション」と呼んでいる。1872年生まれというからモンドリアン40歳の年である。
同時期にモンドリアンと同じように具象から抽象へと移行した画家にはロシアのカンディンスキーがいるが、ドゥースブルフは1915年にカンディンスキーの絵画を見てその後のデ・スティルに於ける自身の活動の確証を得たと証言している。カンディンスキーがのちにワイマールのバウハウスにマイスターとして招聘されることを考えると、20世紀初頭を代表する2人の抽象画家が期せずしてヨーロッパの2つの重要な造形活動に於ける支柱の1つとなりえたことは興味深い事実であるといえる気がする。