本という容れ物

日々、意味>新 2019.08.11 水島 七恵

仕事柄、「本をたくさん読んでいそう」と思われがちですが、好きだった雑誌や漫画を除いて、まったく本を読まないまま大人になりました。
ゆえにボキャブラリーが乏しかったんだと思います。(いや、そもそも知性が足りないということもありますが…)。大学卒業後、駆け出しの編集者・ライターとして仕事を始めた頃、原稿を書いて校閲チェックに回す度に、原稿が赤字で埋め尽くされていきました。そんな私に対して当時、所属していた会社の代表は不安になったのでしょう。「文章を学べるスクールに行ってはどうか?」と言われたこともあります。同世代の同僚はなんなくクリアしている原稿も、私は2度、3度と修正が入り…、どんどん萎縮していった記憶があります。
結局スクールには通わず、七転八倒しながら今に至りますが、あれだけ読まなかった本を今では手に取り、読む機会が増えています。その理由は色々あるように思いますが、ひとつ言えるのは、瞬発力のある言葉、即効性のある情報はインターネットで手にすることができる一方で、ゆっくりと熟成された言葉、体系的な知識や思想は、やっぱり「本」という容れ物にこそ、宿るところがあるから。ページをめくるという行為や気になった言葉には線を引くという行為、そういう身体性は、本にしか得られないという実感があるんだと思います。
ということで、最近は宇宙科学にまつわる本を手にすることが多い私ですが、久しぶりに写真集と図録を購入。敬愛するヨゼフ・アルバースと、テリ・ワイフェンバック。ビジュアルから感じる取る言語。ページをめくる度に心地良いものが自分の内側に流れ込んできます。