繁昌亭にいらっしゃい

日々、意味>新 2019.04.26 橋本 司

年下の落語好きに誘われて、大阪は天満にある繁昌亭に行ってきました。落語には興味はあるもののまったく詳しくない上に、上方落語となるとなおさら。せっかくなので下手に調べず、真っ白のまま聴きに行くことにしました。落語の初見が立川志の輔だったこともあり、あれほどの衝撃はなかったけどおもしろかったし、なんていうかそういうことじゃあないんだろうなぁと思いました。

 

昭和元禄落語心中」の中に「すでに偉大な師匠の偉大な噺がたくさんある。その師匠たちの噺を超えるのは無理でも、今の落語家はお客さんに生の落語を聴かせられる」というようなセリフがあったんですけど、感覚的に少しそのことがわかったような気がしました。僕が行った回は、たまたま高校生たちが社会学習的な実習として落語を聴きに来ていたから、落語家さんたちはそのことを枕で触れてたし、客席の笑い声もおそらくいつもより若い。拍手するべきところで拍手が小さいとそのことをイジり、笑いどころで手を叩いて笑う客がいると「いま拍手はいらない」とそれもイジる。そういう一期一会な要素が絡まり合って、落語の内容自体はおおよそ同じでも「場」としては毎回違うものになってるんでしょうね。それで「今日はどうかな?」とまた足を運んでしまうのもわかる気がします。

 

あと、有名無名に関わらず、おもしろい人はやっぱりおもしろいし、それを観た時にちゃんと自分が笑えてることになんだかちょっと安心しました。今はなんでもすぐに情報が入ってきてしまうから、そのものに触れる前に大なり小なりフィルターがかかってしまう。そうすると、まっさらな状態での自分の反応とはちょっと違うような気がして、いったい今の自分の感受性がどんなものなのか不安になることがあります。そのことを今回少しだけど確かめられた気がします。繁昌亭は上方落語の小屋だけど、その中で唯一の江戸落語の笑福亭円笑が1番口が悪くてハマりました・笑。