092018
Special #30
銀座・奥野ビルにある、
画廊「巷房」に寄せて
ある日、私はグラフィックデザイナーの佐藤卓氏の事務所へお邪魔した。とある取材で佐藤氏にお話を聞きに伺ったのだ。
やがて取材も一息ついた頃、佐藤氏はまもなく始まる自身の個展について説明をしてくれた。
『光で歩く人』と名付けられた個展は、小さなソーラーパネルから得られるエネルギーで、
とてもゆっくりと歩く人間型ロボットが作品の中心に据えられていた。
そして、会場である銀座の画廊「巷房」(こうぼう)の話にも及ぶと、佐藤氏は言った。
「その佇まいも含め、とても素敵な画廊です」。
こうして私は初めて「巷房」に足を運び、『光で歩く人』を観賞。以降、「巷房」が入居する奥野ビルに定期的に通うようになった。
今回、「巷房」のオーナーの東崎喜代子氏にお話を伺うことで、
通いたくなる理由を、「巷房」の魅力と奥野ビルの生きた歴史を、
少しでも垣間見てもらえたらと思っている。
27年前、約3.50坪の空間から始まった
奥野ビルで画廊「巷房」を営むきっかけについて教えてください。
友人で建築家の紹介がきっかけです。わたくしは、昔の建物や古い物が好きでした。あるとき「私が事務所として一室借りている奥野ビルは昭和初期のビルですよ。いらしたら?」と、声をかけてくださいましたので、後日、写真家の今道子さんと一緒に伺いました。とても素敵なビルでした。
東崎さんの好きな要素がたくさん詰まっていたのですね。
そうですね。奥野ビルは、かつては「銀座アパートメント」と呼ばれていた集合住宅で、昭和初期には本当に珍しい水洗トイレやエレベーターがついた、高級アパートだったようです。住人のなかには『東京行進曲』を歌った佐藤千夜子や、その作詞者で詩人の西條八十など、著名な人たちもいたそうです。その後、「奥野ビル」に名称が変わって、オフィス入居が増えてきたようです。
そのときすでに巷房をやっていきたいとイメージはしていたのですか?
それは全く頭にありませんでした。というのも当時は80年代だったのですが、私はフリーランスの記者として働いていましたし、そもそも画廊に勤めた経験もなかったのですが、アートはもともと好きでした。
その当時、フリーランスの女性記者の存在はまだ珍しかったのではないですか?
わたくしの場合は、あるとき週刊誌の編集部に勤めていた知人が「やってみない?」と声をかけてくれたので、最初は少し手伝ってみようかと、気軽な気持ちで始めたのです。でもこれがやってみると、もともと書くことが好きだったこともあって、すごくやりがいを感じて。ハードな毎日でしたけど同じくらい充実もして、以降、10数年間、週刊誌で主に政治を担当する記者を続けました。
東崎さんが元記者だったというのは、とても意外ですけど、様々な世界を知り、人を知るという点では、記者も画廊のオーナーも通じ合う部分があるような気がします。それで奥野ビルを見学した後すぐに一室を友人たちと借りたのですか?
いえ、そのときはどの部屋も満室で借りれなかったんです。だから建築家の友人に空いた時にまた一報いただくことにしたのです。
そして改めて連絡があったときに、いよいよ借りることに。
本当に急な展開でした。借りたいと言ったことも忘れてしまっていた頃に、空室が出たという連絡をいただいて、それでちょうど自分のアトリエを探していた今さんと再び見学に行ったのです。だから今さんのアトリエにいいのでは、と思ったのですが、写真家にとってその空間は狭かったんですね、それで今さんが諦めようかなと言うので、だったらわたくしが借りようと、急に思い立って。
縁があったんですね。
ちょうどポルトガル旅行に行くつもりでチケットを買って準備して楽しみにしていたのに、それをキャンセルして借りることにしました。
最初に借りた部屋は、今の「巷房」がある3Fですか?
そうです。今の巷房の、3分の1のスペース、3.50坪ほどの小さなワンルームを当時借りました。残り3分の2のスペースは、空室になったタイミングでそれぞれ借りていったのです。つまり、もとは3部屋あったところを部屋を隔てていた壁を壊して天井を抜いて、今の事務所と展示スペースがある空間にしたのです。
その当時の奥野ビルには、「巷房」以外に画廊は入居していたのですか?
ありませんでした。その時は巷房が画廊の入居では初めてだったのです。今でこそ画廊がたくさん入居している奥野ビルですが、わたくしが借りた1991年当時はまだ、建築事務所を始め、弁護士事務所、税理士事務所など一般的なオフィスがほとんど占めていましたから。と同時に、その頃はまだ4人のおばあさまがお住まいでした。
「銀座アパートメント」時代からの住人ですね。
なかでも奥野ビル開館当初から巷房の隣の306号室に入居し、「スダ美容室」という美容院を開いていた須田芳子さんは、2009年に100歳で亡くなられるまで、306号室に1人暮らしをされていました。須田さんはおしゃれな方で、ちょっとした買い物に出かけるときも、身なりをきちっとされていたことがとても印象に残っています。素敵でした。
自分の生き方にあった、画廊の在り方
「巷房」という画廊名がとても素敵ですが、名前の由来とは?
友人のアイデアです。その友人が別の空間のために名付けた「巷房」という名が、わたくし自身、とても気に入ったので、本人の承諾のもと、使わせていただくことにしたんです。
別の空間とはなんでしょう?
それは友人が仕事の都合で借りた、新橋の一軒家をいろんな人が集えるサロンのような空間として使いたいという話になったのです。それでわたくしも一緒になってどんな名前がいいのかなあと考えていたら、その友人が「巷房はどうだろう?」と。それを聞いた瞬間、なんて素敵なんだろうと思いました。特に巷(ちまた)という言葉がとても気に入って。
「巷房」は新橋にも存在していたのですね。
そうです。なので「巷房」は一時期、新橋と銀座に存在していました。そもそも新橋の「巷房」で建築家とお会いして奥野ビルのことを知りました。
フリーランスの記者から、画廊のオーナーへ。「巷房」を実際に始めてみた頃の感触はどうでしたか?
本当に手探りの毎日でした。先ほども言いましたけど、当時の奥野ビルはオフィスの入居が基本で、画廊の入居は「巷房」だけでしたから、できるだけ目立たず、静かに営業しなくてはいけなかったので、例えば入り口に「巷房」の看板を置くこともNGだったのです。でも、今思うと知る人ぞ知る画廊になって良かったなと思っています。その方が、わたくしの生き方にも合っていた。それに当時はとにかく人と話をすることが苦手で、お客様に対して「こんにちは」しか言えませんでした。わたくしにお客様と接するのは向いていない。そう毎日痛感しながら、ずっと辞めたいと最初は思っていたんですよ。
そう思いながらも、長く続けてこれた理由はなんでしょう? 東崎さんが1991年に「巷房」を始めてから、今年で27年になります。
それは人が苦手、ということと矛盾するかもしれませんが、やっぱり「巷房」を通して出会ってきた人たちのおかげです。なんて素敵な考え方をしていらっしゃる方がたくさんいました。そう思える出会いが何度もあって、きっと苦手意識よりもわくわくすることの方が優ったんでしょうね。そういう出会いに支えられて、今ではだいぶ人と話をすることができるようになりましたし、その変化には、自分が一番驚いています。
楽しく自由に、生きていく
東崎さんが最初に手にした作品はなんでしょう?
巷房で展覧会をしてくださった作家の作品ですね。
では東崎さんにとって、アートとはどんな存在ですか?
アートはわたくしにとってなくてはならないものになってしまいました。画廊に勤めた経験がないわたくしは、自分のやり方で「巷房」をやっていくしかなかったわけですけれど、やっていくなかで素晴らしい作品にたくさん出会えましたから。
27年「巷房」を続けていくなかで、アートを取り巻く環境も変わったと思いますか?
アートがより身近なものになってきているのではないでしょうか。画廊や美術館で観るだけでなく、自分で所有もするという感覚が、少しずつ浸透しているように思います。と同時に、もっと若い才能が育っていってほしいですね。それはアートに限らず、文学や音楽といった様々な文化がもっと成熟して、世界中の人と対等に交流が図れるようになると良いなと思います。
最後に、画廊のオーナーとして、東崎がもっとも大切にしてきたことを教えてください。
いつだったか、ある人に「とても自由でいらっしゃいますね」っておっしゃっていただいたことがあるんですけど、それはその通りだなって本当に思うのです。わたくしは旅と音楽が好きでよく出かけます。だってわたくしが楽しく生きていなければ、とつねに思っていました。「巷房」は有名な画廊でもありません。心に残る方々との出会いを信じて27年間、「巷房」をやってきました。そしてわたくしが「巷房」を通じて出会ってきた人たちのなかには、素敵な方々がたくさんいました。わたくし自身、自分が素敵だと思える生き方をしたいですね。楽しく自由に。これからも続けられる限り「巷房」でありたいと思います。
巷房 (こうぼう)
1991年、東京・銀座にある奥野ビル3Fの一室にて開廊。現在はスペースを拡大し、3Fが巷房1、地下が巷房2、階段下として、平面から立体作品まで様々な作品の展示を行なっている。主な展示作家に、今道子(写真家)、永井研治(版画家)、塚本誠二郎(陶芸家)、清野泰行(画家)、周豪(画家)、出久根育(銅版画家)、佐藤卓(グラフィックデザイナー)。●東京都中央区銀座1-9-8 奥野ビル TEL:03-3567-8727 OPEN:12時〜19時 日休